戦後,母国である韓国においてIOC委員をはじめとする各種の要職を務めた李想白は,1966年4月14日にソウルの病院で心筋梗塞のため死去した。その直後,日本政府は彼に対し勳3等旭日章を授与し,彼の功績を称えた。なお,彼は1940年12月にも,大日本バスケットボール協会が行った創立10周年記念式典で功労者として表彰された。これらのことは,何故,どのような業績に対してなされたのであろうか。
その答えは,例えば牧山圭秀の「バスケットボールの技術史」(『スポーツの技術史』所収,1972)や日本バスケットボール協会50年史『バスケットボールの歩み』(1981),早稲田大学バスケットボール部60年史『RDR60』(1983)によって示されているように,昭和初期のバスケットボール界における李想白の功績に対する評価によるものであった。しかし,それらの文献では,李想白に関しては主として思い出話しによるところが多く,資料的裏付けは充分なされていない。
李想白に関する実証的な研究の試みとしては,孫煥の「戦前の在日朝鮮人留学生のスポーツ活動に関する歴史的研究」(1998,筑波大学博士論文)がある。しかし,この論文は全部では,韓国の体育・スポーツに貢献した6名の人物が主に扱われており,李想白に関しては,その6名のなかの一人ということで,彼の生い立ち,思想,同胞との関連が中心であった。
李想白らが発起人となり,1930年に大日本バスケットボール協会が設立された。大正期から1930年に大日本バスケットボール協会が設立するまでバスケットボール界の運営を行っていた大日本体育協会の薬師寺尊正から李想白らが独立するような形で,大日本バスケットボール協会が設立された。それは,設立する会議に現れた薬師寺尊正を会議に参加させなかったのも,隣の部屋に新聞記者を呼んでいたのも李想白だったからである。そして,この協会の設立が,YMCAのバスケットボールから学生らのバスケットボールへ完全に移行したことを示す出来事であったと考えられる。
大日本バスケットボール協会では,規則委員,審判委員,競技委員,編纂委員の四つの委員会が設けられた。李想白は大日本バスケットボール協会の規則委員と編纂委員を務めていた他,審判委員と競技委員にも関わっていた。その一例として審判委員については,1936年に行われたオリンピック・ベルリン大会で李想白は日本人としては初のバスケットボールの国際審判員となり,草分け的存在となっている。また,李想白は競技委員会に関しては,1930年に『指導籠球の理論と実際』を指導者育成の意を込めて出版している。さらに,技術指導のため全国を東奔西走し当時の日本バスケットボール界に,李想白の理論が行き渡ったと評されるほどであった。
李想白の論稿は,大日本体育協会による『アスレチックス』(1922~1932)や大日本バスケットボール協会の機関誌『籠球』(1931~1942)など,数多く見受けられる。そして,そうした論稿で技術・戦術を扱う時は,他の資料を基に彼の考えを記しているものであるが,その中で彼が松本幸雄の『籠球研究』第7号に寄稿した「コーチの類型と進化」だけは,李想白独自の立場でコーチの技術・戦術面に即した分類を思うがまま叙述している。その「コーチの類型と進化」では,フォーメーションやセットプレーという戦術が連結することでシステムとなり,システムに速攻法(奔放型)が加わると科学的プレーへと戦術が成熟していくことを段階的に記されていた。李想白は,コーチの類型における成熟段階を示しながら,日本バスケットボール界のチーム戦術の移り変わりと競技水準との関係,及び今後の技術・戦術の方向性を考えていたのである。
以上のように,李想白が我が国のバスケットボール界で担っていた役割は,技術的関与と組織的関与であったと考える。彼の技術的・組織的な関わりの大枠の研究は出来たと思えるが,彼の思考,そして役割が具体的に我が国のバスケットボールに影響を与えたことについては,さらに李想白の思考を整理し,彼が担った役割を明らかにすることで,バスケットボールの黎明期を如何にして形成したのかを考察していく。
(以上,2013年1月,記す)
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